今回の特集記事では、三河・佐久島アートプラン21『木村崇人展 佐久島で地球と遊ぶ』に関して書かれ、寄稿された文章を紹介します。私たちの手がけた展覧会は、これまで新聞や一般雑誌の記事、また美術雑誌では美術批評として取り上げられてきました。今回掲載する『眼と認識』は、それらどの範疇とも異なる視点の元に書かれたものです。ともすれば、「良くも悪くも美術の視点とそれを語ることば」を、あたりまえのものとして無自覚に受け止め、あるいは受け流している私たちに、「美術以外の視点とそれを語ることば」について、久しぶりに考える機会を与えてくれました。一服の清涼剤をあなたに…?(内藤) |
以下は、『木村崇人展 佐久島で地球と遊ぶ』での作品『ガリバーの目』に即発された一種の考察である。必然的に、当該作品に関する詳細な解説を必要とするはずなのであるが、ここではそれをあえてしない。 それでも、その作品がどのようなものであったのかを、比較的適切に表現する必要はあろうかとも思う。具体的に言う。当該作品を見て自宅に帰ってから、わたしは、帝国海軍の航空母艦「瑞鶴」の1/100スケールモデルの写真を引っ張り出して、感慨を覚えた。「そうだ、こんなかんじだった」と実感をもって理解した。そういう作品でもあったと思う。 この『ガリバーの目』という作品を制作者の意図通りに体験するためには、ちょっとしたコツが必要で、ある程度以上の年齢のいった人間が、サポートなしでその体験を可能にする率は、約50%といったところだろうか。あるいは、すでに見えているはずなのに、それを体験として実感しきれない人間もいるように見えた。もちろん、そのすべてが「ある程度以上の年齢のいった人間」たちである。 ![]() ![]() なぜに、少年と呼ばれうるものたちのみが、あのプラモデルあるいはフィギュアと呼ばれるものを愛好するのか――その答えが、当該作品から与えられているような気がしたのが、本稿を書こうとしたとりあえずの理由である。 作品を見ながらずっと考えていたのは、M・メルロ=ポンティの「幼児の対人関係」のことだ。そこに書かれていたある部分について思い出していた。なぜ幼児が、現代風のデッサンや絵画を比較的容易に理解できるのか、ということに関して、メルロ=ポンティは、こう言っている。 お望みなら、幼児の思考は最初から一般性[抽象性・普遍性]を持っていると言ってもかまいませんが、それと同時に、きわめて個性的でもあるのです。それは、与えられた対象や行為を身体的に再現するという方法を用いながら、しかも〈本質的なもの〉に到達しようとする相貌的思考なのです。(滝浦静雄・木田元訳) もちろん、これが当該作品に対する正しいアプローチであるという気は毛頭ない。幼児と少年という用語の概念上の混同を安易に行おうというつもりでもない。そうではなくて、おそらくは「少年」の一員たるわたしに対して、認識について考える、入口を与えてくれているように思えてならなかった。 だから、わたしは認識について再考することにした。 カントとショーペンハウアーを引用するまでもなく、我々の経験する現実の時間と空間は、我々の感性の形式である。したがって、直感に反した信じられないようなことであっても、日常の現実であるかもしれない。 わかりやすく説明する。 わたしには、どうしても実感として信じられないことがあって、それは、以下のようなことである。「われわれは、巨大な球の表面に生息し、その球は時速約1600kmでコマのように回転しながら、宇宙空間を突進している」のであるという。こころから聞きたいのだが、それをほんとうに実感して信じている人は、果たしているのだろうか。 しかし、もしかすると、何らかの分野で、それを日々体感している人がいるのかもしれない。あるいは、もっと巨大な宇宙と物理認識が「体感できている」人がいるのかもしれない。それについて、教えてほしい。その認識への手段でもいいから、教えてほしいと思う。そういうときに人類は、いままで、宗教と呼ばれる逃げを行ってきた。わたしは、必ずしもそれを否定するものではないが、それでは、わたしの認識に対する疑問には、決して答えられないと思う。 ともあれ、わたしの視覚も聴覚も、この地球とよばれるものの上に平然と存在している不可解さと同様に、たいして信頼するに足るものではない。それは事実のようだ。 話を戻す。 少年たちばかりが楽々と見ることのできるその作品をわたしは何度も何度も見た。見るたびごとに、少しずつ首をかしげるようになっていった。「もしかしたら、本来、このように見えているべきものを、わたしの脳は、遠近感を調整しているのではないだろうか」という、軽い恐怖があった。 これには多少、理由がある。『木村崇人展 佐久島で地球と遊ぶ』での他の作品『光の法則(現象の家)』というピンホールを利用したもので、スクリーンに画像が逆さまに映っているのを見たときである。この現象は、よく見るものではある。しかしそのとき、認識について考えているわたしには、別のものに見えてしまった。 ![]() 物自体から遠ざかるかのように体感しているのを、日常と呼んでいるような気がした。 問題は、認識と直感という用語を厳密に区別することなく使っているところにある。しかしそれでも、人類は、認識という言葉を、野放図に使わなくてはならないと考える。さもなくば、人類は、認識主体と物自体について、それこそ野放図なまま生きながらえていくだけの存在になるであろう。 もしかしたら、それでもいいのかもしれない。 しかし、わたしはいやだ。 少年たちが、当該作品を見ながら新たな視認識を得た喜びを表現する姿には、わたしはどこか叱責を受けるような感覚を覚えた。あるいは注意とか。 これには適切な引用をしておく。 すばらしいポロスよ。われわれが朋友や息子たちをもっているのは、まったくあだやおろかなことではないのだ。ほかでもない、自分が年をとってから、失敗をしでかすようなことがあったときに、君たち若い者が付き添っていてくれて、行為においても言葉においても、われわれの生をたて直してくれるのだから。(田中美知太郎訳) プラトンの『ゴルギアス』のなかで、ソクラテスはそう語る。これは、プラトンの作文ではなくて、確かにソクラテスが、そう言ったのであろうと、そう思う。プラトンは、2400年くらい前のアテナイの街で、その言葉を聞いたのだと思う。そうとしか思えない。 わたしは、木村崇人の作品と少年たちとを考えながら、なんと、ソクラテスにまできてしまった。脱線もいいところではある。 当初の、少年とプラモデルについての問題は、実はほったらかしのままであるが、すでにソクラテスが答えてくれているような気がする。それを通常理解可能な、明晰なものにするためには、再びメルロ=ポンティとソクラテスの声に耳を傾けねばならないとも思う。認識に関しては、カントとショーペンハウアーを久しぶりに仰いだ。いつも通り、ボコボコにされたが、とても楽しかった。認識についてのことは新しい発見もあったが、この文章に書き加えるのにふさわしい内容ではないので、沈黙することにする。申し訳ない。 そうだ。もしもできうるものならば、木村崇人に、わたしが「巨大な球の表面に生息し、その球は時速約1600kmでコマのように回転しながら、宇宙空間を突進している」ことを体験できるような作品を制作してほしいと思う。人類の認識は、必ずしも信頼するに足るものではないが、それは決して不可能なものでもない――そう信じているからである。 とりあえず、そういったことを考える扉を作ってくれた木村崇人には、感謝せざるを得ない。だからさいごは、きちんと、メルロ=ポンティの「眼と精神」からの引用を、木村崇人に捧げることにする。 もはや問題は空間や光について語ることではなく、そこにある空間や光に語らせることなのだ。それは果てしない問いかけであろう。その問いが向けられている視覚それ自体が問いかけなのだから。(滝浦静雄・木田元訳) [文:最上直美(もがみ・なおみ)] 【引用】 『眼と精神』(1966)M・メルロ=ポンティ/滝浦静雄・木田元訳 みすず書房 「幼児の対人関係」、「眼と精神」 『世界の名著6/プラトンT』(1978) 責任編集田中美知太郎 中央公論社 「ゴルギアス」 |
特集記事 目次へ | TO HOME |